一 森の中で
例えば、森の中を歩いているとしよう。
私はどこから来て、どこへ行こうとしているのか、
なぜ、私はここにいるのだろうか、
このようなことを、ふと考えることもあるだろう。これらの問いは、「私はなぜ生きているのだろうか」という問いへと続いていく。
私はなぜ生きているのだろうか。
この問いは、実際生きるには必要のない問いであるようにも思える。実のところ人々は、このようなことを毎日考えているわけではない。
私はなぜ生きているのだろうか。
この問いは、その他のいろいろな問いとは明らかに異なっている。
私はどのようなことをしているとき、うれしいのか、
私はどのような職業に就いたらよいのか、
これらの問いとは、根本的にちがうものだ。それは、「どのように」ではなく、「なぜ」を問う問いだからだ。この問いを問い始めたとき、既にあなたは哲学の森に入っている。今まで歩いていた森が、哲学の森になったのだ。
哲学の森を歩きながら、考えてみよう。考えることは大切なことだ。森の中で深呼吸する。私たちは、迷い、苦しみながら、生きている。日常立ち止まることは容易ではない。しかし森の中だからこそ、私たちは立ち止まることができる。
普通私たちは、問いには答えがある、と思っている。だから、答えを求める。答えを求めてさまよっている。
いや、そもそもこの問いに答えがあるのだろうか。答えらしきものの問いの周りをぐるぐる回っているだけなのではないだろうか。しかし人は、もはやこの問いを捨て去ることができない。それほどまでに、この問いは魅惑的な問いであるといえるだろう。
では、どうしたらよいのだろう。
ドイツの詩人がこのように語っている。
問いを生きる。
答えを求めて問いを追いかけるのではない。問いを生きるのだ。問いを生きても、答えはすぐには見つからないかもしれない。答えを求めるのではない。あくまでも、問いを生きるのだ。問いを生き続ける。
そうすれば、どうなるのだろう。
いつしか答えの中に入っている。
詩人は、「いつしか答えの中に入る」と語っている。
答えはどんなものだろう。きっと答えは大きすぎるほど大きく、とてもその全容を理解できるものではないだろう。「答えの中に入る」というフレーズからは、そうした思いが感じられる。でもいつか、その大きな答えのほんの一部である、例えてみれば、ひとかけらの雪、いっぺんの詩に似た答えを、手にすることもあるだろう。
哲学の森は深い。しかし恐れることはない。森の中であなたは一人ではないのだから。
私は一人ではない。
このことは大切なことだ。私たちは一人ではない。哲学の森の中で、私は一人孤独に生きているのではないのだ。
森の中で、
私は一人ではない。
森の中で、
深呼吸する。
哲学の森の中で、
私は迷い、
苦しみ、
そして考える。
私はどこから来て、どこへ行こうとしているのか、 なぜ、私はここに居るのだろうか、と。そして、
私はなぜ生きているのだろうか、と。
かつて同じように問うた人々がいる。その人たちはどのような答えを手にしたのだろうか。同じように苦しみ悩んだ人々がいる。その人たちは、どのような解決へと近付いたのだろうか。
哲学の森は深い。そこでの出会いに期待しようではないか。美しい木々、道端に咲く花々、どんな出会いが待っているだろう。
あなたが問いを生き始めたとき、きっと素敵な出会いがあるだろう。それは哲学からの贈り物だ。その贈り物を大切にしよう。
さあ、ゆっくりと歩みを始めよう。
二 考え方
私たちが生きている地球には、いろいろな人種の人々がいる。丸い地球儀をくるくると回すと、大きな大陸や大洋が存在しているのが分かる。ここに暮らす人々はみんなが、同じ考えで生きているのではない。考えというより、考え方がちがうのだ。
海に近い所に暮らす人たちがいる。
逆に山地に暮らす人たちがいる。
回りが砂漠の人もいるだろう。
零下になる所に暮らす人たちもいる。
熱波に晒されている人たちもいる。
地球は一つだが、気候は様々だ。気候だけではない。海抜によっては、気圧がちがう。それらの条件によって、さまざまな人種があり、様々な考え方が生まれる。
だが、たった一つだけ同じことがある。それは、我々現生人類は、みんな「ホモ・サピエンス」だということだ。
みんなが哺乳類である。母親から生まれ母親の乳で大きくなる。ある一定の年齢まで、子どもは何語でもしゃべれる。そういう機能を持っている。しかしある言語コードに組み込まれると、それ以外の発語はできなくなる。後になって、巻き舌ができない日本人が、その発音に苦労するということになる。しかし、赤ちゃんはみんな巻き舌ができる。次第に使わない言語の発声ができなくなるだけだ。
一定の年齢まで子どもの脳は、柔軟に世界を理解しようとする。その社会で生きていけるように、習得する。
ネアンデルタールの食器は、何万年経っても同じだ。しかしホモ・サピエンスはちがう。彼らは工夫する。どうしたらもっと機能的に使えるのか。どうしたらもっと美しくすることができるのか。食器はどんどん変貌する。機能的になり、美しくなる。その工夫の先にあるのが、原子力であり、宇宙旅行であり、AIだ。現生人類は「工夫する」ということから、ただこのことから、地球を支配していると言えよう。
彼らは妄想ができる。何もない所から神を生み出せるのだ。ここもネアンデルタールとは異なる。ネアンデルタールは家族主義だ。家族で移動し、家族で狩をする。血以外の結束がない。しかしホモ・サピエンスは、他に結束するものを作り出せるのだ。神、イデオロギーといったもので結束することができる。それに命を賭けることができる。
そのために大集団になることができた。
「生きていく」と「生かされてある」
「生きていく」ことを考えてみよう。生きていくために必要なことは何だろう。生きるためには、食料が必要だ。食料を得るためには、何をなすべきなのだろう。
仕事である。仕事の対価として金銭をもらう。そうして食料を買う。それが一般的な生き方だ。
生きていく。「いく」は、動作を表している言葉だ。継続を表す言葉でもある。
成熟した国家で生きている人は、生きていくために、先ず学校に行かなければならない。生きていくための基本を学ぶためである。そこで教わるのは、人間社会で生きるための心構えとその方法である。
授業がある。
中学校の場合、国語、数学、理科、社会、英語、美術、技術家庭、保健、体育だ。
他に部活動、給食、掃除・・・それらから日々の生活の在り様を知る。
小中学校での学びは義務化されている。
個人は「生きていく」ために、ここでの学びを基礎として、自己を形成していかなければならない。
そこで理想とされるのは「夢」だ。夢を持ち、夢の実現に向かって頑張ろう、というのである。もちろん夢を持つことは悪いことではない。みんなが、大きい夢であれ小さい夢であれ、胸の中に夢を持っている。それは将来への後押しになるだろう。
ところがそれだけではすまない局面が出てくる。どうしてもそれだけではすまない。
生きていくと、自分が尖っていくことを経験する。社会の中で、尖っていく。仲間同士でも尖りを感じることが出てくる。競争社会では、必ずそれぞれの人々が尖っていく。
友情を育んだ人の間でも、先輩後輩の間でも、尖りが存在する。日ごろ口に出さなくても、我々は尖っている。
そんなとき、どうすればよいのだろう。心の中に尖りを潜めながら、顔では笑って生きていくのだろうか。
いや、尖りだけではないのだ。嫉妬、嫌悪、不安、欲望、恐怖、悲嘆、これらの感情に包まれたとき、どうすればよいのだろう。
きっと親が、友が、仲間が、それらを癒してくれるだろう。だが、彼らがいつまでも癒し続けてくれるとは限らない。その前に、果たして癒すだけで、私たちの心は安寧を得られるのだろうか。
哲学の森で、あなたはとほうに暮れる。考えることをあきらめて、また元の世界に戻ろうか。しかしそれで解決できるのだろうか。
そういう時には、少し道の先を見てみよう。目を上げて・・・そう、少し目を上げるだけで景色が変わる。
そんな時、あなたは古い書物の一節を思い浮かべるかもしれない。
ある人が、「死後どうなるだろうか」と不安に思い、師に問うたと言われている。師はそれには答えず、次のように問い返した。
あなたは死ぬ前に、三十人の人に感謝され、
そして、見送られるだろうか。
利得を離れて感謝を捧げられる人が三十人いるか、と問い返されたのだ。
あなたが生きていてくれてよかった。
あなたのおかげです。
「そんなの無理に決まっている。一人だけだったら、いるかもしれないけれど・・・」
多分そう思っているかもしれない人に、更に師は言う。
「では三十人の人に心から感謝を伝えて下さい。会って伝えられる人には会って、手紙で伝えられる人には手紙を書いて、それもできない人には心の中で・・・深く、なんのこだわりもなく、純粋に感謝の心を捧げて下さい。そうすれば・・・」
そうすれば、どうなると言うのだろう。
それは書いてはいない。しかし一日一人の人に感謝を捧げれば、一か月で三十人だ。「やってみようかな」と思ってやってみてください。そうすれば、奇跡が起こります。
奇跡の内容も奇跡の在り様もすべて、人によって違うだろう。しかし「生きていく」ではない生き方を知ることになるだろう。「生きていく」は能動的主体的な生き方だ。そこで行き詰った人が別の生き方を知ったともいえる。それは・・・
生かされてある。
今まで「生きていく」しか分からなかった人が、「生かされて在る」を体感したのだ。
例えば森の大きな木に手を回して、一切を預けてみよう。そのときに「生かされて在る」ことを感じる。あるいは、森の声に耳を傾けてみよう。鳥の声、滝の音、風の音・・・それらに生かされてあることを感じる。
「生かされて」の方は、誰かに生かされている。「生きていく」の方は、より能動的主体的に生きていく感じがする。
「生かされて」と言った場合、では誰によって生かされているのだろう。
このことが、感謝の言葉を捧げてみると、よく実感されるのだ。「生かされてある」ことをかみしめてみよう。
しかし、この生き方だけがいいというわけではない。
人は「生きていく」ものだ。時には立ち止まり、「生かされてある」ことを実感する。
二つの生き方をバランスを取りながら、生きていこう。今ここで別の生き方を知ったことは貴重なことだ、と心に留めおいてください。
三 二元論
私たちは、これまで幾多のコンサートを企画、実演してまいりました。哲学することを実体験しながら、試行錯誤してきた、と言えます。
「音と詩想」 兵庫県・西宮市
「思惟すること」 滋賀県・守山市
「和歌とリートにみる日独比較」 大津市伝統芸能会館
「マドンナ・デル・パルト・コンサート」
大阪・ゆりの礼拝堂
「虹になったパンと食育」 大津市・ピアザ淡海
(おうみネット掲載)
このコロナの時代にあって、実演をすることは難しくなりました。しかし、ピンチはチャンスに変わります。オンラインでギャラリーを開くことにいたしました。
興味のある方は、そっと扉を押して下さい。お待ち申し上げております。
「哲学の森を歩く」オンライン・ギャラリー
大津市浜大津四―一―一明日都浜大津
市民団体 大津ヴュルツブルク奏楽会
哲学の森を歩くと
さまざまな生き物に出会う。